2014年4月24日 星期四

「我」在「這裡」

近八年的記錄果然是不可思議的事情。
我喜歡回顧自己寫下來的東西,就像鏡子或夢,穿過去就能見到曾經的自己。

這裡不只是我與剛先生之間的記憶。
這裡是我成長和愛情的軌跡。
一月月一年年我寫了又寫,各式各樣的想法層層疊疊甚至週而復始,也許也像我的夢一樣,會連續,會重播,有時也毫無道理,卻始終令我沉浸不已。

我隨著剛先生而起的七情六欲,剛先生催促我整理的千頭萬緒,
這裡封存的是一個個彼此相似卻也不同的我自己。

現在的我是怎麼來的呢?過去的我在哪裡呢?
我最近益發強烈感覺每一秒的我都是割裂的,就像哲學家所問,我是依憑什麼認定秒秒之間的我是同一個體呢?
這並不是我要在這裡論述的事情。(笑) 這樣的思緒大扺需要認真的好好寫一篇。
在這裡我想談的是相對單純的概念──
「我」在「這裡」。
「我」透過文字在宇宙洪流中一個極微小的沙粒上攀附。

不可思議。

我不知道每一秒的我是不是同樣的一個人。
但假設是,
那這裡,以一種我自己都未查覺的狀態,
繪出了我自己的生命折線圖,我的一份愛情的流變。

天地的奧妙,果然是幾千幾億劫都無法窺識的。

2014年4月21日 星期一

八年

我跟小次一起住的這個迷你窩居然已經八年了。
整整的八年,2006年的4月20日至今,堂堂邁入第九年。
太驚人了。
我都沒有感覺時間過了這麼久。

幾乎與我愛上剛先生同時。那一年是2005年。

凡事都有一種微妙的因果,無法解說的。
印象中,我也是無意中看見某個團fan使用迷你窩,覺得好可愛,而住進來的。
在這裡也認識了雖然不多、但也是形形色色的fan群。
這裡的點點滴滴,也可說全部都是剛先生。
八年來數百篇的言語,八成環繞著剛先生。

這裡記錄了我與剛先生共同走過的每一個日子。

我本來就念舊到堪稱執著。
儘管小窩的放空讓我憂慮也惆悵,我仍舊不曾棄守。
就在我認真思考是否真正該另覓他處時,天意又引我發現我在這裡構築的不可思議的八年。

萬事都是必然的。

我們再一起走下去吧。
就像我要跟剛先生,走到天荒地老一樣。

2014年4月10日 星期四

おめでとうございます。ありがとうございます。

※文章參照該站網友回應適度修改。



剛さん、35歳お誕生日おめでとうございます!
また一年過ごしていまして、剛さんはいままでの自分をどう思い、これからの自分にどんな期待がありますか?

私ももうすぐ27歳になります。
今の私は、充実した生活をしています。仕事は忙しくて、ままにならない時もありますけど、興味がありますし、給料もまあまあですから、文句を言えないでしょう。安定な収入の上で、したいことももっとできますし、出勤以外の時間は多彩です。
幸せな子ですね、私。感謝の気持ちはいつもあります。母の蔭で、神様の蔭で、そして、剛さんの蔭で、いまの自分をできますから。

剛さんはいつも神様のようで、先生のようで、私を導いてくださいます。迷う時、悲しい時、剛さんのことを思い出したら、心は落ち着きました。仕事を探していた時も同じ、剛さんをいつまでも応援していくということを始めとして、自分の過ごしたい人生の実現の為に、いい仕事を携わなくてはならないだと考えました。ですから、自分を鍛え、努力して、いまの幸せに辿り着きました。本当にありがとうございます。
でも、ここは終点ではないです。したいことは、まだいっぱいあるのです。
人を助けたくて、救いたくて、こういう気持ちを忘れないでね、いつも自分にそう言いました。
剛さんを見習いたいです。

27歳の剛さんは、もう素晴らしいことをできました。年を取るに従い、剛さんはさらに美しくになります。佛のように、優しくて、おっとりしています。そして、若き日の微熱を捨てられないです。
平安神宮での〈命のことづけ〉を聞いて、我慢できずに涙がボロボロに零れました。
どうして泣くのでしょう?自分でもよく分からないです。理由はないかもしれないでしょう。心を打たられたから。
叶わず砕けたということをちゃんと知っていますけど、必ず信じてみせると宣言します。
こうしたバカみたいな話、アマイ心は、私を強く揺り動かしていました。
私たちはもう青春ではないですよね。年齢で見れば。でも、心は世故になりたくはありません。
その無邪気な自分を、ちゃんと掴まえたいです。

剛さんはいつもヒトツということを伝えています。
私の場合、自分の信じている正義ということもあります。
いわゆる真理はないのだと思います。ですから、自分を安心させる道を歩いていったらいいのだと思います。
自分の初心を裏切りたくないです。いつまでも、いくつでも。

どうもありがとうございます、剛さん。どうして剛さんが生まれたのか?きっと、私たちを救う為ですよね。菩薩のようです。
ありがとうございます、お誕生日おめでとうございます。

2014年4月8日 星期二

《AV女優的工作現場》(《AV女優のお仕事場》)讀後

作者:溜池五郎
譯者:王榆琮
ISBN:9571358878
閱讀時間:103.02.05-103.04.05
讀後感:★★★

本來我想給這本書四顆星的,但當看到最後面作者對於戀童的情緒性批判時,我默默的扣分了。
就像作者說的,這本書想要呈現一個經常被人輕易、隨意的誤解的行業的普通貌相,而他也確實盡力展現了這一點,這是我認同這本書的原因,但很可惜的,作者對於戀童恣意批判的行為,恰恰就像是一般人對於性產業會做出的反應。
我覺得一竿子打翻是很不好的,每一件事情都有各種解讀的面向,都有各種成分,不見得必然好,但也不會絕對錯。
所以作者試圖描寫A片業的平實我覺得相當好,我甚至覺得他寫的根本是常識──那不過就是所謂三百六十行其中的一個,大家早就應該知道成人影片跟偶像劇差不多,只是一種在鏡頭前演繹的工作吧?工作有好有壞,但壞的往往不是工作本身。就像血汗工廠的問題不是職業不當,而多半在於老闆沒有盡力提供適當的環境。要抗爭的是工作條件的改善,而不是推翻這整個職業,更不必說宣稱所有的工廠都是血汗的多不公平。
我認同作者「翻案」的意圖,所以我原先接受這本書,但看到作者對於戀童的一味嫌惡,實在讓我很錯愕。尤其是,所謂看到童顏巨乳就會引發侵犯兒童的攻擊行動、戀童者會刻意選擇容易接近兒童的場所工作以方便下手之類妄下斷言的偏見、歧視性論調,一瞬間我真的想懷疑這本書是不是誤把兩個不同立場的作者的文章裝訂在一起。
我忍不住想吐槽,如果說戀童有病,那對熟女特別有愛的作者導演君,是不是也有病呢?如果說戀童片引誘犯罪,人妻片是不是也一樣有教唆犯罪的嫌疑呢?
我不是批判作者的立場,我認為立場是一種純感性的事情,就像欣賞或不欣賞一個人往往沒有什麼理由,即使知道自己不欣賞對方是毫無道理的,也很難消除不愉快的情緒。
我覺得可惜的是作者的不自覺。同時具有矛盾的觀點並沒有什麼問題,但這本書既有意消弭偏見,卻仍自陷於偏見的矛盾裡,我覺得非常可惜。

附帶一提,我實在不懂這本哪裡十八禁,實際上,我經常不懂十八禁的範疇或意義。
就一本類似工作雜記又無附帶任何圖片的書而言,對於自己被劃歸到限制級的陣營,應該也會感覺跑錯棚吧。